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ひと言たか子な関係

幸四郎さんって率直な人ですね。
私は高麗屋の皆さんは、人として好きだな。

芸事のいい悪いは私には残念ながらわからないけれど、
お芝居をやる姿勢が好き。

そして、今日「父と娘の往復書簡」の8月分を
読んだんだけど、父の娘を見る気持ちって
どんなんなんだろうって、少しだけ思った。
まあ、私は娘っぽくないけど。

この往復書簡読むようになってから、
やけに、幸四郎さんの株が私の中で上がってます。
なんか、すごく人間っぽいんだもん。

で、今日のヒットは、「ひと言たか子」(笑)
いい父娘関係だなって思った。

ひょっとして、たかちゃんも「いらんこと言い」なの?
私は「いらんこと言い」です。
言いたくてしょうがなくなったら、我慢しないタイプ。
「そのうち刺されますよ」と子分Aは言います。
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三尸虫

古文書の解読のお当番だったんで、一生懸命やってたら、日記書くの忘れてました(^^;

今、ちょうど養生論みたいなのをやってるんだけど、江戸時代の文献だから、大昔からの中国の医学書を参考にしていて、たまに近代医学では考えられない呪文が書かれていたりします。

たとえば、庚申信仰に関連して、「去三尸誦言」の呪文。
「彭候子(ほうこうし)・彭常子(ほうじょうし)・ 命児子(めいじし)
悉く窈冥の中に入り、我が身を去り離れよ」

なんの呪文かというと、人の身体の中には、上尸:彭候子・中尸:彭常子・下尸:命児子がいて、上尸は頭にいて、目を悪くし、顔のしわをつくり、髪を白くします。中尸は腸内にいて、五臓を悪くし、悪夢を見させ、大食させます。下尸は下半身にいて、命を奪ったり、精力を減退させます。

そして、さらにこの虫は庚申の日の夜、人の眠っているスキに体内を抜け出して天上界に昇り、その人の行状を天帝に報告します。その報告を聞いた天帝は悪い行いをした人の寿命を縮めてしまうので、三尸の虫が体から抜け出ないように、夜通し起きていたのです。

で、先の呪文は庚申の夜に身を浄めて南に向かって、体内の虫が遂にいなくなるようにと三回唱える呪文なんです。

これはやっぱり信じてたんだよね。きっと。

きっと、いい出会いだった

今月号の父と娘の往復書簡を読んだら、
ずいぶん昔の人との別れの話が書かれていた。

当時の自分が書いたものを、PCの中から探しました。
うん、そうだった。こんなことを思ってたな。

2002/07/19 雨の日、一つの訃報
http://matsutako.blog87.fc2.com/blog-entry-278.html
2002/07/21 思い出は私の心の中だけに
http://matsutako.blog87.fc2.com/blog-entry-279.html

もう一つの話は、古くからの友達の話だった。
たかちゃんは、大切に思える人がいるんだね。
私も、大切に思っている人はいるよ。

何気ない日常の中で積み重ねられる言葉。

人と人をつなぐのは「素晴らしい言葉」というよりも、
誰がどういうシチュエーションで、思いを発するのか、
誰がどういうシチュエーションで、思いを受け取るのか、
人と人との関係性。それが何よりも大きな結びつきの力となる。

確かに、そばにいること、話を聴くこと、お互いに。
それはコンピュータの画面を通じてよりも、
言葉の数が少なくても通じ合えるかも知れない。
いるだけでいい場合も、話を聴くだけでいい場合も、
発される言葉が必要な場合も、いろいろだろう。

でも、過信は危険だ。
面と向かって、電話、手紙、インターネット、
どんなコミュニケーション手段であっても、
半ば通じ合うことができ、半ば通じ合うことはできない。
そう書いたら、私はまた・・・
冷たい人間、寂しい人間扱いになるのかもな。
話がずれた。
「発される言葉」=「受け取られる言葉」とも限らない。

たまたま流れてきた音楽や、何気なく見ていたドラマ、
そういったものとの出会いが、人の何かを変えることだってある。
それだって、立派な出会いだ。立派なコミュニケートだ。
たかちゃんの仕事はそういう仕事なんじゃないのかな?

たった一人でもいいんだよね、必要としている人に伝われば。
誰かを意図的に変えるなんてことはできない。
その人がいい出会いをすること、それを祈ろう。

祈る? じゃあ、結局無力なの? そうではないと思う。
人と接しなければ、出会いがなければ、次のステップはない。
出会いそのものが力だと思う。ふれあいは力だと思う。
自分は受け入れられるかも知れない、受け入れられないかも知れない。
もし、自分が受け入れられなかったとしても、
その人が、別のいい出会いをすればいいんだよ。

そして、それは自分が人と大切に関っている限り、
めぐりめぐって、必ずいい出会いがその人にも訪れる。
本当はそう信じたいんだよね。

だけど、たかちゃんの大切な人たちは死んでしまった。
死の瞬間、その人たちが何を思っていたのかなんてわからない。
でも、きっとたかちゃんとの出会いは、その人たちにとって、
いい出会いだったよ。財産だったよ。
たかちゃんが幸四郎さんに宛てた手紙を読んで、そして、
4年前の自分の書いた文章を読みながら、そう思った。

今さっき、CMに串田さんが出てて、
ふと「あっこのおじさん知ってる人や」って思った。
テレビに出てる人っていう意味じゃなくて、知り合いって意味ね。
いや、一度も話したことはないんですよ。不思議だね。

ゆったりと俳句でもどう?

今日から梅雨に入りましたね。東京の方もそうかな?
「つゆ」といえば、たかちゃんの俳句。
ビッグコミックオリジナルの表紙に2号連続で載ったやつね。

今発売のやつは
「露に濡れ 家路を急ぐ 傘の群れ」

ついでに前の号は
「薫風に 見え隠れする 若葉かな」

両方とも季節感あふれてますね。俳句ってそういうもんだけどね。

露に濡れ・・・の方は、こないだ5月末にお芝居を
観に行ったときのことを思い出しましたよ。
まさしく、こんな感じ。夜の10時だよ。
雨ざーざーだよ。早く帰りたいよ。
でもさあ、梅雨じゃなくて、露って使ってるんだよね。

ん?露は秋の季語だぞ? でも、水滴だと考えると、
傘からポタポタ落ちる水滴が、一つの傘に2人で入ったりすると、
肩にかかって濡れるじゃん。そんな感じもしたね。
今日、まさしく子分Aとそんな状況だったし。

薫風に・・・の方はさわやかなんだけど、
なんか、見ている人はきっと一人で
気持ちよい風に吹かれながら、日の光にきらきら輝く若葉を
まぶしそうに見てるんだろうなと、そんな気分の句。

もちろん、作者である松さんがどんな気分でつくったのかは
知りません。でも、俳句や言葉の面白いところって、
作り手の意図だけにとどまらないところだと思うんですよね。
作り手の思っていたこととまったく違っていても、
読み手がその言葉に触れて感じたことが、その言葉の価値になる。
すごく読み手の自由さを保障してくれるようなとこがあると
思うんですよね。そこがすごくいいなあと思います。

演劇もドラマも何時間もの物語があるので、
行間の自由度は少ないですよね。そういう意味では窮屈だな。
矛盾をそのまま残すようなお芝居もあるけど、
それは矛盾であって、発想の自由さではないからね。

話がズレたけど、
若葉といえば、樗堂さんがこんな句を読んでおります。
「そろそろと若葉になりし老い木かな」

なんか、ゆったりした気分の句だと思いません。
まあ、ゆっくり行こうや。

青田がる?

今日もさぼりの日記で。
ん? 母の日っていつやっけ?

「○○○○が青田刈りってどういう意味ですか?」
って聴かれたので、○○○○がなぜ青田刈りになるのかが
わからないのかと思って、○○○○の説明をしたら。。。

「青田がりって何ですか?」って
青田刈りの意味を知らないようでした。。。

「まだ、青い田んぼを刈るってこと」とズバリを言うと、

「ああ~、そうですか、青田がりって
青田○子でも簡単にできるってことかと思いました。」だって、
それは青田さんに失礼やろ・・・

で、いきなり話が変わりますが、
私、最近の映画では「間宮兄弟」が見たいんですよね、
あの、イケテなさが魅力的やわ。
「ダ・ヴィンチコード」も見たいけど、
今はどっちかというとバカっぽいのを観て楽しみたい。

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