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今日は初日

今日は「コーカサス白墨の輪」の初日ですね。
開演直前で緊張している頃かな。
どんな舞台になるかワクワクしています。
でも、私が見られるのはちょっと先。
私はいま「明るいほうへ明るいほうへ」を見てます。
たまたまTVでやってたから、そしてずーっとダダ泣き。
この話は、また今度書こう。

ある人に教えてもらって「週刊文春」を見てきました。
毬谷友子さんが「コーカサス白墨の輪」の紹介をしてくれてます。
彼女曰く「やっててすごく楽しくて」
毬谷さんも木琴とかアコーディオンとかあるみたい。

「一見の価値ありだと思いますよ」ってマリヤさんは、言うけど。
細かいところまで全部見ようと思ったら、
何回行っても足りなさそうです。
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「愛」は「大切」

「アガペー【(αγαπη), agapee】」
「エロス【(ερωs), eroos】」
「フィリア【(φιλια), philia】」

「3つの愛」の続きですが、アガペーとエロスは高校の時
倫理社会で勉強したからなんとなくは知ってたのです。
知らなかったのは、新約聖書で出てくるこの3つの概念を
日本語ではすべて同じ言葉、つまり「愛」としているということ。

なぜ、区別して訳されなかったのか・・・
日本語訳の聖書が誕生したのは1880年。
1872年から翻訳委員会ができて、検討が重ねられたのですが、
そのときに参考にしたのが、英語訳の聖書と中国語訳の聖書。
この中国語訳の聖書に「愛」という言葉が使用されていたんだそうです。

中国の愛の概念の中には、アガペー的なものがあり、
それは「仁愛」と表現されます。儒教の概念です。人類愛のようなものです。
「仁」は親子兄弟という血縁に根ざす親愛感のことで、
これを無縁の人にまで広げていくことを「仁道」といいます。
まさしく、アガペーですよね。墨子は「天下互いに兼愛すべし」と言ったし、
どの宗教?教え?も大して変わらないことを言ってるんだよね。
そういえば、小学校6年生のときに「どの宗教でも一緒だ」と今と同じことを
親に言ったら(進歩ないなあ私・・・)、
親が困ってたことを今でもよく覚えてます。

翻って日本では、「愛」の響きは、むしろエロス的な特別の個人に対する
愛情を思い起こさせるものであった。
それこそ、仏教では「愛=エロス」は煩悩の一つである貪(とん)、執着であり、
解脱への妨げだった。ちなみに六煩悩の残りは、
瞋(じん)(憎悪)、痴(ち)(無知)、慢(まん)(慢心)、
疑(ぎ)(仏教の教えに対する疑い)、見(けん)(誤った見解) です。

仏教的な言葉では「慈悲」が比較的アガペーに近いのではないかと思います。
「慈」は真実の友情のこと、「悲」は哀れみ、優しさのこと。
儒教も含めて、東洋的な思想では、他人を自分と同じに愛することは不可能だと。
だけど、「己の欲せざるところを人に施すなかれ(by 孔子)」、
そこから相互に相手を哀れみ、いたわりあう愛、「慈悲」が生まれるというわけです。

この間、聞いたお話は、だから、
聖書の教え「汝の敵を愛せよ」と言われて、
恋人を愛するような特別な思いを抱かないといけないのかと、
キリスト教の説く「愛」に敷居を高く感じる人がいるという話でした。
さすがに新約聖書の日本語訳が出てきてから125年位が経った現代では、
神的な愛(アガペー)を人類愛的な人間というものを尊ぶ愛として
認識している人が多くなってきているとは思います。

アガペーの愛をなんとか日本人にもうまく伝えられないものか・・・
そこで、ある人が独自の訳を考えたものを教えてくれました。

「愛(アガペー)」=「大切」

だから、「汝の敵を愛せよ」は、
「わが身に仇をなす人には、なお大切を持って奉ずる道なり」

人を大切に思うこと、人を尊ぶこと
これなら愛するよりもずっと敷居を低く感じるんじゃないでしょうか。
でも、実はとても難しい。

考えだすとね、いろいろ思う。
近世的な恋愛観と近代的な恋愛観のこと、「黄金の日々」に見る恋愛のこと
また、今度ね。

今日の出来事

今日は拘束時間がやたら長くて頭はヒマっていう仕事を
していたんで、その時間を利用して、「3つの愛」のことを
考えたんだよね。それで、帰ってきて書こうと思ったら、
メモ書きを職場に忘れてきたことに気づきました。

残念。その件は明日書きます。

今日は、その仕事が終わってから、前から約束してたし、
どうせご飯も食べなきゃいけないし、そんなに時間を取らない
だろうと思い、ぎやまんの博物館みたいなところに行ってきました。
あそこは夜に行って正解だったかも知れない。

展示品はなかなか綺麗だったし、庭が光のイルミネーションみたいに
なっているのもよかったし、ミュージアムショップでは、
ふくろうの置物(寝てるふくろうのふくちゃん♪)を買ったし。
私はね、ちょっと深めの青色が好きだなあと思いました。
そこでご飯も食べて、本当はその後、ダブルブッキングだった飲み会の
二次会に参加する予定だったんですが、さすがにそれに出ると、
明日の打ち合わせの資料がつくれないので、帰ってきました。

で、さっきまでちょいと仕事をしていて、まだ終わってないけど、
毎日、日記は書こうと今年に入ってからは続けてるので、
こうやって、くだらんことを書いてるわけですね。
日記ってのは、毎日の記録だから、
今日、私はこんなことをしましたってのでいいんだろう。
きっと。

3つの愛

今日は、いいお話を聞いた。
キリスト教の聖典といえば、聖書。
そして、イエス・キリストの言行についてふれたものが新約聖書。
そのぐらいは、キリスト教徒がわずか数%しかいない日本でも
ほとんどの人が知っているでしょう。

新約聖書には「愛」という言葉が盛んに出てきます。
キリスト教とは何かと尋ねられ、新島襄はこう答えたといいます。
「愛以貫之」(愛を以ってこれを貫く)
キリスト教は、「信仰・希望・愛」
中でも「愛」の宗教なのです。

ここからが本題です。
この「愛」ということば、日本語訳の聖書ではすべて
「愛」と訳されているのですが、、、、実は、
本来、この本が書かれた言語である古典ギリシャ語では、
3つの言葉に分かれているんです。
「アガペー【(αγαπη), agapee】」
「エロス【(ερωs), eroos】」
「フィリア【(φιλια), philia】」
私は知らなかったので、ものすごく勉強になりました。
ただ、ギリシャで使われていたこの3つの言葉とキリスト教で使われている
意味合いにはやや違いがあるようです。

ギリシャでは、「アガペー」は、
家族・兄弟・恋人・友人への普通の愛情を表していました。
ですから、キリスト教でこの「アガペー」が使われるとき、
神が人を我が子のように愛するとき、それは
無条件的絶対愛、無償の愛とされたんです。
親は子を無条件に愛するでしょ。
「ミス・サイゴン」でのキムのタムへの愛のように。
最近はひどい事件も多いですけどね。
「アガペー」は神が人を愛するように、
相手がどういう人であろうと無条件に愛する愛なんです。

「エロス」は、簡単に言えば、これは誰かに恋(恋愛)したときに
陥るような自分でも自由にできない、どうしようもない感情のこと。
激情的、情動的な愛です。
ギリシャでは、エロスは偉大な神でもありました。
ローマ神話のキューピッド(ローマではクピド)と同じ神様です。
といえば、わかりやすいと思います。
よく弓矢を持った裸の翼を持った少年として描かれていますよね。
あの矢で撃たれた者は、恋に落ち、愛の苦しみを与えられるのです。
無償の愛「アガペー」に対して、エロスは代償を求める愛。
恋に落ちると、相手が自分をどう思っているかという思いに苦しめられる。
愛する人から愛して欲しいという気持ちが芽生えてくるんですよね。
そして、エロスは肉体の愛を含んでいたんです。
でも、肉体だけの愛(性愛?)だけじゃない感情だと私は思います。
日本語で「エロ」というとそういう風に捉えられがちですけどね。

「フィリア」は、「友愛」と訳され、友人や仲間たちに感じる愛とされています。
でも、もちろん対象は家族や恋人である場合もあります。
どういう気持ちかってことですから。
ただ、間違えてはいけないのは、「友情」ではないってことです。
感情的な「エロス」に対して
精神的な理知的な愛情ということでいいんじゃないでしょうか。

実は、ギリシアでは異性だけでなく同性に対してもエロスの愛は現れていました。
フィリアの友愛と、エロス的な友愛は、ギリシャでは連続的な感情であったようです。
しかし、キリスト教は同性愛を認めませんから、
そのあたりの連続性はキリスト教的にはなくなり、
フィリア的な「愛としての友愛」は友情的色彩を強め、
エロスは異性に対する性愛的な色彩を強めたと思われます。

そこで、キリスト教的解釈の中で、
「アガペー=精神的・霊的な愛」
「エロス=世俗的・肉体的な愛」
「フィリア=友情的な友愛」
ごくごく簡単に言うと、このような区分になったわけです。

もうちょっと書きたいことがあるんだけど、長くなったので、また今度。

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