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今日も反省

今日も反省してます。
AさんのパシリでBさんが来た時すごく機嫌悪かったから。

だってさ、あと打ち合わせまで10分を切りました。
でも、まだできてません。って状況のときに
呑気そうな顔して、明日の話をしに来るんだよ~。
大事な話ではあるんだけど、
そんなことくらい任せたんだからやってくれればいいのに。
と、余裕のなかった私は思うわけやね、イライライライラ。

Bさん、お気の毒様でした。
Aさんはどうやら今朝、私を見てパシリをよこしたので、
きっと、超機嫌の悪い状況を読み取ったんやろうね。
賢明な判断でした。

しかし、やればできるもんだな。
土曜日なんて、報告書をつくるために資料を読みながら、
感動して泣いたもんね。米国人の校長先生が、
戦争のために日本から去らなければならなくなって、
アメリカに帰ってたんだけど、日本が戦争に負けて、
学校も空襲で焼けてしまって、そんな中、日本に戻ってくるんだよね。
70歳を超えてるおばあさんがですよ。
そして、焼け残った建物の半地下のところに住むんです。
すごいなあ。そういう人の熱い思いに触れちゃったら、
少しでも、お役に立てるように書くしかないよね。
今日は、必要な写真がなかったので、結局、自分で撮りに行った。

もっと早くからやっておけばよかったと
この2~3日、何度思ったことか・・・・って

実は、まだ終わってません。
でも、後は体裁を整えていくだけだから、時間を使えば必ずできる。
ほんのちょっと気分が楽なのです。

明日は、楽しく送別会やろうね。Aさん。
私は幹事なのでした。。。さて、どう仕切ろう。
というか、はじめの挨拶、お願いしてくれたかなあ。
忘れてんじゃないだろうか、Aさんのことだし。
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未来になる?

突然ですが・・・
「未来になる」っていう○さんの新曲が聴きたくってしょうがない。
「未来になる」ってどういう意味だろうってずっと気になってるんだよね。
これ、意味わからないよね。

たぶん、ミス・サイゴンでキムをやったことがこの新曲には影響を
及ぼしているんじゃないだろうかと、思うわけですが。。。
「未来になる」というのは、たぶん自分が主語なんだろうけど、
未来っていうのは、「○○の未来」ってなるわけで、
特定の人が入ることもあるだろうし、世界のような集合体が入ることもあるだろうし、

すごーーーーい、「未来になる」って希望に満ち溢れた言葉だね。

勝手に○○のところに自分の名前を入れちゃうと、
○さんが、私の未来にもなってくれる ってことだ!

なんか、風邪といまだ目の前に山と化してる仕事とにクタビレ気味だけど、
○さんが私の未来にもなってくれるなら、私も○さんの未来になろう。
そして、おまけで他の人の未来にもなろう。ハイ、ちょっと元気になった。

で、新曲を聴いたら、全然ちがうアプローチだったりして(^^;
というか、音楽の話じゃないね。

ところで、この「わからない」って感覚は結構大事だと思うんだよね。
ああなんだろうか、こうなんだろうか、と考えるきっかけになるからね。
まあ、この話はまた今度。

コーカサスを観て・・・友の感想

さあてと、また友人にもらった感想をアップしますが、
今日は、わたくしは子ども教室だったんです。
先月よりはうまくいきましたよ。やっぱり場を乱す子は数人いたけど。
決まったことをやるより、自分のオリジナリティを生かすことの方が
楽しそうでした。どっちも必要なんでしょうけどね。
しかし、疲れた。。。。風邪引いてるときは睡眠が必要ですね。
終わってから今まで寝てました。でも、1000ページの本と昨日から格闘中で
ようやく、あと300ページなんで、今からがんばることにします。
(注意:もちろん全部読んでるわけじゃないですよ)

では、友人の「コーカサスの白墨の輪」の感想をどうぞ!

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『悪』の心の芽生

昨日アップした友人(お犬さま)の感想の中のこの部分

>『善』=『ミカ○ル』と考えたら面白いかなぁ~って。

以前観に行った2/5-6日と今回観に行った2/19-20では、
いくつか松さんの芝居が変わってる部分があったんだけど、
その中で大きく変わってた部分が、
ミカエルが友達と遊んでるシーンでのグルシャの反応。

このシーンを少し振り返っておくと(少々間違ってるかも)、
ミカエルが近所の子どもたちと遊ぶシーンです。
その中のボス的存在の子どもが首切りごっこをやると言って、
子どもたちに役割を言い渡していきます。
首を斬る侯爵役はそのボスの子です。ミカエルは首を斬られた知事役です。
一番小さいから、一番簡単な役なんだそうです。
子どもたちは、強い侯爵が弱い知事の首を斬ったって
遊びにするくらいに、みんな知ってるんですよね。
そして、もちろん首を斬られた知事はミカエルの実の父です。

しかし、ミカエルは「イヤだ、首切り役をやりたい」といいます。
それで、子どもたちはグルシャにミカエルが言うことをきかないと
訴えます。グルシャは「あひるの子は・・・」といいます。
大事なセリフなんでしょうが、意味もよくわからず覚えてもいません。
みにくいあひるの子の話から例えてるのかな?(^^;
今はあひるの子のように弱いけど、そのうち大きくなったら変わると。。。

そして、ミカエルは首切り役を一回だけやらせてもらえることになり、
ボスの子に思いっきり刀にみたてた棒を叩きつけます。そして、
やったなコノヤローみたいな感じで全員追いかけて退場していきます。


このシーンを1回目観たときは、首切りごっこって・・・趣味わるい
このときにすごく思ったんですよね、それが遊びになるような世界なんだって。
そして、ミカエルが首を斬られる役なのも首を斬る役をやりたがるのも、
ものすごい皮肉だなあと。ミカエルは父親を殺す役をやりたがるんですからね。

でも、1回目のときは、グルシャは笑ってその遊びを観てたんです。
そのときに「?」って思いました。
私なら子どもにそんな遊びはさせたくないなって思いました。
だけど、彼女がごく普通に笑って見てたから、この世界では、
強いものが弱いものを殺すのが普通なのかと思いました。

だけど、2回目では芝居が変わっていた。
グルシャは、首切り遊びをやるとボスの子がいい始めた時から、
一つ一つの言葉に反応してました。
この反応をどう解釈したらいいかよくわかってないのですが、
子どもに首切り遊びなんかさせたくないという私の思いと
あまり変わらないのかも知れません。

だけど、ミカエルが「首切り役をやりたい」と言って、
他の子どもたちが「ちゃんとやらない」とグルシャに訴えて来たとき、
グルシャはミカエルを強く強く抱きしめるのです。

一つの解釈として「他の子どもたちに負けない強い子になって」という
気持ちの表現というのがあるのかも知れません。
その後のセリフで「あひるの子・・・」と言ってますから。

でも、もう一つの解釈として、
「首切り役を望むような子になって欲しくない」という思いを
持っていたんじゃないかと思いました。
もし、この思いがあったなら、これは後の「コーカサスの白墨の輪」の裁判
での「グルシャが語らなかった言葉」の背景となる重要なシーンだと思います。

ここでようやく『善』=『ミカ○ル』説とつながってくるんですが、

人はもともとは生存したいという本能を持っていると思います。
最初の置き去りにされたミカエルは、ただただ生きようとしていた。
それは、大人になったら生じてくる生存競争、つまり誰かの生を
踏みにじって生き残ろうとする生とは、異なるもの。
それは、『善』ととらえてもよいのかも知れない。

だけど、人間はもともと善も悪も持ってるんだろうと思ってまして、
ミカエルも普通にああいう首切りごっこをするような社会の中で
生きていて、『悪』の心が芽生えつつあったんじゃないかなと思います。
グルシャは、あの抱きしめていた時に、それを危惧していた。

そう思うと、よくわからなかったあのシーン・・・
納得できる気がします。

悔しい気持ち

私、この芝居「コーカサスの白墨の輪」をみながら、ずっとなんというか悔しい?思いでみてたんです。悔しいというのはやっぱり表現が違うかも知れないのですが、何かがすっきりしない。

前にはじめて観たときに書いた言葉、
「どこか遠い国の遠いところのわけのわからないお話的な感覚を舞台の間中、受け続ける。」
「台所女中もピンと来なければ、兵隊さんもピンと来ない、生まれたときからの身分の差というもの自体が、現代の日本のさらに狭い世界に生きている私にはピンと来ないからでしょうね。」

前に書いたように、この芝居の舞台では、明らかな階層の差があり、その時代の人の感覚を私は理解しきれないなあという思いが悔しさの一つ。

もう一つは、戦で多くの人が死んで、恋人は帰って来ないかも知れず、民衆は簡単に支配者を裏切り、別の権力者になびき、生きることが精一杯な状況、それが日常であること。こういう状況に生きている感覚を私は決して理解できないだろうという悔しさ。

実はここで描かれている世界はすごい悲惨な世界なんだと思う。なのに、そこに生きている人たちがそれを日常としているため、また、悲惨さにくれていないため(それはある意味人間のたくましさ)、私たち観客に悲惨な状況として決して伝わってこない。
これを圧政の苦しみにあえぐ国の人が、あるいは、内乱が日常化している国の人が観たらどう思うのだろうか?

「セツアンの善人」のときにも感じたことだけど、ブレヒトっていう作家は、「権力者」と「衆愚」を描き、その中に「善」を見出そうとしているように感じた。

お犬さまの感想

今日は、午前中は今度の土曜日の子ども教室の打ち合わせをしてました。
こないだは、上手くいかなくって考えさせられたけど、
また、こうしようああしようとアイデア出し合ってたら、
土曜日が楽しみになってきました。万が一うまいことできたら、
フォトにでも作品をアップしますね。

さて、本日も「コーカサスの白墨の輪」の友人の感想を
・・・つうかぶっ飛び思考を紹介します。
後で、このことで、私が思いついたことも書きまする。

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観劇によるカタルシス

この前から個人的に宿題な気分になっている「異化効果」を考えていて、
カタルシスってみんなどういう意味合いで使ってるのかなあと
ちょっと気になったんで、これまでの考えを整理する意味も含めて、
今日はそのことを考えてみます。
だから、多少これまで書いてることとかぶると思いますけど、お許しを。
って、いっつも同じことしか書いてないけどね(^^;
一人の人間が書いてるんで、これもお許しを。
なお、違う意見は大歓迎ですので、お気軽にお書きください。

「カタルシス(通痢効果)」って言葉は辞書によると、
1.文学作品などの鑑賞において、そこに展開される世界への感情移入が行われることで、日常生活の中で抑圧されていた感情が解放され、快感がもたらされること。特に悲劇のもたらす効果としてアリストテレスが説いた。浄化。
2.精神分析で、無意識の層に抑圧されている心のしこりを外部に表出させることで症状を消失させる治療法。通利療法。

まあ、演劇におけるカタルシスは1.の「抑圧された感情の解放による快感」でしょうね。

「コーカサスの白墨の輪」の場合は、劇中劇の構成なので、
劇(A)におけるカタルシスと劇(B)におけるカタルシスを分けて、
私にそのカタルシスがもたらされたかを考えてみます。
でなければ、同じカタルシスという言葉を使っていても
違う意味合いで使ってる可能性が出てくると思うからです。

劇(B)のグルシャの物語とアズダックの物語
(物語が2つあるところもポイントかも)
そのものから得られるカタルシスを
「物語から得られるカタルシス」と呼ぶならば、
観劇という非日常的行為には、これとは違う
「観劇から得られるカタルシス」と呼ばれるものがあるのではないか。

今回の「コーカサスの白墨の輪」は2つの物語がシャッフルされることにより、
各々の物語は細切れになり、「物語から得られるカタルシス」は奪われる。
もし、ブレヒトが劇中劇のスタイルをとるのが、
芝居の進行中でも意識を覚醒させて、
劇(B)への客観視を求めているところにあるのだとすれば
(不勉強なの違っていたらご指摘を)、
シャッフル効果によって「異化効果」は成功していることになる。

「コーカサスの白墨の輪」の場合、演劇を観に来た人は
劇(A)への参加を通して演劇という非日常空間に参加し、
「観劇から得られるカタルシス」は得られるのではないだろうか?
ただ、物語から得られるカタルシス」というのが
物語と観客一人一人の関係で、個人個人違った精神の解放なのに対して、
「観劇から得られるカタルシス」は、観衆が同じ方向を向き、
叫び、踊ることによる感情の発散ではないかと思う。
つまり、ここでの個人の感情には深みがない。
また、今回は舞台上に上がった観客と席にいた観客に
大して差はないと思った(2階席はわからない)。
ただ、役者と観客の一体感がどれほどのものだったかというと、
これは席位置よりも個人差が大きいと思う。

少し、他の方の感想を読んでみたけれど、確かに多くの人が参加型であることが楽しかったこと、あるいはしらけたこと(少数ですが)、を語っていて、物語の内容は単純だったとしている、あるいは物足りないとしている人が多いように感じた。ただ、劇(B)の物語が観客に何も残さなかったかというとそうではないと思う。それ以上に劇(A)への参加が衝撃的だったということだろう。

「観劇から得られるカタルシス」は芝居を楽しいものとさせ、またお芝居に行こうという気にさせる。
例えが悪いかも知れないが、昨年の「浪人街」は、ラストの立ち回りとその後のカーテンコールでのサービスっぷりが特徴的だが、これに対するスタンディングオベーションは、「物語から得られるカタルシス」ではなく、ちゃんばらの爽快感とちゃんばらご苦労さま!という「観劇から得られるカタルシス」の極みなのではないだろうか。これは確かに観客に満足感を与え、思考を奪う。ブレヒトが嫌うものはこういうものかな?

ならば、今回の「コーカサスの白墨の輪」が「観劇から得られるカタルシス」を強調しているとしたら、それはブレヒトに反するのか? 私はそこまではいってないのではないかと思う。先の2つの物語から得られるものを払拭するほどのものではなかったように思う。ただ、私は物語を解釈するのが好きなタイプなのでそう思うのかも知れない。だから実際のところはわからないけれど。

もうひとつ、この芝居の特徴は楽屋裏を見せること。これは実はずいぶんと観劇が散漫になる。観たいところが多すぎる感じがした。1回観ただけじゃわけがわからず、参加できたことの目新しさ楽しさだけが残るかも知れない。いろんな人の感想を聞いてみたい。

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参加型よりもシャッフル

本日は、1コ下のkeyさんの感想から先に読んでくださいね。
というかですね、もうちょっとまとめてから書けという感じではあります。
すみません。

以下、隠します。

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「串田演出と異化効果」

掲示板の方にkeyさんに感想をいただいたので、こちらでも紹介します。
以下、ネタバレですので、隠します。

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ノロマな亀が案外好き

私は、わりと暴走機関車タイプです。
今、やってる仕事もそうなんですけど、
とにかく、思いつくことをいっぱい書きまくりながら、
前に進むタイプです。そして、書きまくっていくうちに、
輪郭が見えてきて、構成を変更し、すっきりとしない部分、
あいまいな部分をクリアーにして、どんどん書き直していく。
かと、思えば、全然違う方向に走っていく時もあるけど。

それで、ごちゃごちゃになってきたり、
思考のスピードにまとめるスピードが追いつかなくなってくると、
こうやって、少し他のことを考えて、リフレッシュする。

私は大学の頃から仲良しのすごく大好きな友人がいるんですが、
この友人が全然私とタイプが違って、ノロイんです。
(怒らないでね、これから誉めるから)
で、じーーーーーーっくり考えてから、しゃべるから、
研究会なんかでもなかなかついてこれずにしゃべれない。
口を挟もうかと思ったら、次に話が展開しているから、
しゃべれないんですよね。
でも、じーーーーーーーっくり考えていて、
ひとつひとう納得しながら進むから、すごくよく考えてるんですよね。
頭もいいし。誉め誉め(^^)

だから、レポートを〆切までに完成しなかったり、あるいは
夜遅くまでトロトロ仕事してることも多い感じではあったけれど、
本人が一つ一つの言葉にちゃんと納得しながら進んでるから、
軸がぶれてなくて、私はその友人の言葉がとても好きです。

人に言葉を伝えるときは、当然、その言葉をその人がどういうイメージで
捉えているかによって、まったく通じなくなってしまう。
こんなときに、辞書というのはまったく役に立たない。
辞書には、その言葉の背景までは書かれていないからです。

だから、言葉の背景の解説を加えなければならないために、
あるいは、限定的に言葉を使っていることを示すために、
文章がどうしても長くなってしまう。できるだけ、一つの言葉を
共有して使おうとすると、そうせざるを得ない。
だから、言葉よりも、どういう背景でそれが語られているかの方が
はるかに意味を持っているんです。
だから、わかりやすいフレーズのところだけで解釈せずに
背景も飛ばさずに読んでね。長いけど。

たとえばね、「愛している」という言葉は、
知らない人に言われても信頼性はゼロでしょ。
自分とその人の関係性の中ではじめてその言葉は
様々な意味を持って伝わってくる。

言葉には必ず背景がある。
ちょっと松さんのこと、誉めてもいいかなあ(^^;
ほらね、コロっと思考が転換しちゃったでしょ。私はそういうタイプなんです。

さて、松さんはきちんと背景を持った感情表現をする女優さん。
今回の「コーカサスの白墨の輪」では、言葉を通しての
表現だけでなく、高い身体表現能力を見せてくれた。
驚くほど高い完成度のところにいながら
普通な感じで着実に役をこなすので、芸達者感が薄いけど。
でも、主役は堂々とドーンとしてたんでよろしいかと思います。
コミカルな見せ場もちゃーーーーんとこなしてたし。

ただですね、もし実際に彼女にここはどういう思いで演じているの?
と聞いたら、いつもクリアーな返事が返ってくるとは限らないと思う。
でも、心ではわかっている。
なんか、そういう確信みたいなものが、
なんか彼女の演技にはある気がするんだよね。

また、私は今暴走状態に入ってるんで、
思いつくままに好き勝手に書いてますんで、
あんまり、真剣にとらないでくださいネ。

最後のセリフ

私、最後のセリフが大好きなんですよ。
この劇の真髄はここにあるんだろうと思います。
「私がこの子を引き取ったのは、あなたと婚約したから・・・」
このセリフでも「セツアンの善人」での「この子にだけは善人でいよう」
を思い出しました。

グルシャは大好きなシモンのために、善人でいたかったんでしょうね。
グルシャの背景にはシモンがつねにいるんですよね。
「見返り」もないのに知事の妻を警護して戦争に行ったシモン。
ここですでに「見返り」という言葉が使われていたことにハっとしました。

シモンの十字架をグルシャはずっと大切にしている。
シモンの十字架がグルシャが子供を愛する(アガペー)ことの支えになっている。

昨日、二幕はじめの裁判で田中さんが近くの席に座って私たちに向かって、
「見返りを求めるのはひどい」と何度も言っていました。
この場合の見返りは賄賂のことだけど、
「見返り」という言葉はこの芝居のキーワードの一つなんでしょうね。

もう行かなきゃいけないので、ここまでということで。

なぜか荻窪

私は本日は荻窪の西郊ロッジってところにいます。
外観は戦前の建物が残っていて、もともとは全部洋館だったんだけど、
半分を旅館にしたので和風になっているんです。
玄関は引き違いの格子戸になっているんですが、到着して、
その戸を開けた瞬間、一瞬自分の家に帰ってきたような感覚になりました。
自分の家は、全然格子戸でもなんでもないんですけどね。

で、今日はもう遅いので、洋館の方は見せてもらってないけど、
和風に直したという旅館も昭和30年代頃の雰囲気であふれてるんですよ。
ああ、残念、カメラ持ってくるの忘れちゃった。。。
ガチャガチャとチャンネルを回すタイプのテレビとか、
電気スタンドとか目覚まし時計とか、古臭い鏡台とか、
花柄で手で持ち上げていれるタイプの保温のみのポットとか。

まあ、物持ちがいいわねえ、って感じです。
たまには、こういうところに泊まるのも面白い。

ところで、私、まだ移動中に友達に電話をしようとして、
間違えて、自分の実家に2回も電話しちゃったんですよ。
そしたら、母が出て、「昨日は惜しかったなあ」って言ってました。
ひょっとして、最優秀賞を松さんがとるかもしれないとおもって、
もし、とらはったら私に電話をしようと思っていたらしいです。

それで、「昨日は舞台があるさかい出はらへんかったんか?」って聞くので
「そのとおりです」って言っておきました。よくわかっておられる。
私の教育のたまものやね。
まあ、今回はいいやとれなくても、そのうち三谷さんに主演映画一本撮ってもらって、
それで最優秀主演女優賞をもらうことにするから。
って、なんで三谷さん?と疑問にお思いでしょうが・・・
実は今日の夜のコーカサスに来ておられました。&昨日の受賞式にもおられたし。

でも、昨日の日本アカデミー賞の受賞式の松さんは華やかかつかわいい感じでしたね。
私は、舞台の本番があるから、てっきり欠席でVTR出演かと思っていたけど、
テレビ放映の少し前に「あと8分です」とかって宣伝があって、
その最後にドレス姿の美しい松さんが映ったのでびっくりしました。
どんな手を使ったんだ?、それとも見間違い?って本気で悩みましたよ。
あの受賞式って16時くらいからやってるんだね。松さんはちゃんと出席はして、
1部で表彰してもらって、その後、舞台に向かったんだね。

で、本日は掲示板の方に前に書いたブレヒトと串田さんの演出について、
意見をもらったので、再び行ってきた「コーカサスの白墨の輪」を書きたいところですが、
それは、また次回にします。

劇中劇と観客の参加

「コーカサスの白墨の輪」は参加型の演出方法が好評のようです。
ただ、その演出手法にはじめて触れたことの新鮮さや
単純にお芝居に自分も参加してきたという満足感が
その好評の多くを占めているようで、

その演出がブレヒトの戯曲を観客に伝える上で
どのような効果があったのかについての評価は
ほとんどみられませんでした。

昨日トラックバックしていただいた記事に上記の演出効果に
ついて触れているものがありました。
http://www.playnote.net/archives/000357.html
ブレヒトの演出論から串田氏の今回の演出をみておられます。
ブレヒトが目指したものと今回の串田氏の演出が正反対であることから、
ブレヒトという劇詩人への誤解を招くのではないかという危惧が
語られていました。ただ、この方は見られていないので、
感想だけでなく、批評も必要というにとどめられています。

私は2回観たので、実際に参加してみてどうだったかを、
考えてみたいと思います。

劇場の入口に立つスタッフが、すでに劇中の衣裳と同じ類のものを身につけ、
そこから、観客は物語の世界にいざなわれはじめます。
舞台と客席の境目には、木の棒が並べられているだけで、
役者たちも、そこらへんにウロウロとしているので、
観客はそこが自分たちの世界とは違う舞台の世界だとは感じません。

「コーカサスの白墨の輪」は劇中劇ですが、劇中劇を劇(A)中劇(B)とすると、
この開幕前の、役者が観客に話かけさえする劇場の雰囲気、
そこからそろそろはじめようかと、朝比奈さんと串田さんの掛け合いで
劇(A)がはじまっていくスタイルは、劇(A)の世界に観客も入り込んで
いるような感じです。

観客は劇(A)の世界の住人として取り込まれたまま、劇(B)一幕は進行し、
「ちょっと休憩しましょうか」というようなセリフの後、
幕間にはグルジアワインが広場の真ん中(舞台上)で売られる。
ちなみに、役者はほとんどが劇(A)の世界の住人と劇(B)の世界の住人を
兼ねていますが、朝比奈さんだけは、ずっと劇(A)の世界の住人のままです。

幕間の終了の頃、広場でワインを飲んでいた人たちは、
そのまま、「その場に座って!」と促されて、ニ幕はじめの青空裁判の
傍聴人?観衆?として参加します。私もこのときにその場に座りました。
劇(A)の観客であった私たちは劇(B)の観衆として見立てられたのでしょう。
劇(B)の世界に主体的に参加したのではなくて、装置の一部として、
劇(A)から劇(B)へと移行させる手法の一つとして、
観客は利用されたのだと思います。
一幕の最初とは違ったアプローチをとったのではないかと思います。

このときの私は、劇(B)の物語の世界にどっぷりと浸りこんで、
登場人物に感情移入するのとは、まったく逆の感情に支配されました。
物語の装置は、物語を追えなくなります。
私は役者ではありませんから物語の世界に入り込むこともできず、
ひたすら、演劇作品の一部に(装置として)参加している感覚でした。

役者の方は、観客を観衆に見立てて、毎回違った雰囲気となる
その青空裁判を楽しんでいたかも知れません。

外から観ていた人たちは、劇(B)の観衆に見立てられた私たちを
物語の一部のように捉えていたのか、それとも物語の世界とは異なる空間
と捉えていたのか、それはわかりません。

私がこのときに受けた感情は、
「セツアンの善人」で舞台上の客席に座ってみていたときとは、
まったく違うものでした。このときは、今回のコーカサスの前の方の席に
座ったときと同じような感じで、むしろ物語の世界に入り込めたんです。

串田さんが目指しているのは、観客を劇(A)の世界の住人として、
取り込むことではないでしょうか? それは劇(B)を楽しんでいる観客です。

だから、私は今回、串田さんがやった方法は、
意外なことに、ブレヒトが求めていた異化に近いんじゃないかと思いました。

最後のダンスは、2幕のはじめとは逆に、役者と作品そのものが
劇(B)から劇(A)へと戻ってくる役割を担っているのではないかと思いました。
ラストダンスは、劇(B)の延長のようですが、劇(B)に観客を取り込む効果は
ほとんどないと思います。
あまりのハッピーエンドに、照れがあって、あえてその説教臭さを
バカにするために、ダンスパーティーで誤魔化す。
観客は、単純に芝居に参加できて楽しかったという思いを抱く。
劇(B)の世界に観客が取り込まれているわけではない。
実際に、このラストダンス、私自身は参加していませんが、
むしろカーテンコールの前触れのような感覚さえ受けました。

私は演出論に詳しいわけではないので「批評」はできません。
ブレヒトの戯曲も演出論も串田さんの作品と演出論も知らないので、
「ブレヒトが聞いたら握り拳を震わせて怒りわななく」ことになるのかは、
本当のところわかりませんが、私が実際に参加してみて感じた「感想」
としては以上のようなことでした。

この芝居、劇(A)と劇(B)のどの部分で観客を参加させているのかを
みていくことが、演出手法を語ることになるのではないかと思います。

一観客の素人「感想」でした(^^;

ほりえもんを好きでない理由

ライブドア社長の堀江さんが叩かれてるっぽくみえると
ちょっとかわいそうな気にはなるけれど、私にとって
ほりえもんはあんまり好きでない雰囲気を持った人です。

何が好きでないのかなあと思ってみたのですが、
どうも、ほりえもんはゲームをやってるように見えるんです。
ゲームには必ず勝敗がある。
ゲームに勝つためなら、様々な制度の間隙をついて、
自分の会社に有利なようにことを展開する。
そのゲームに勝つことに自分の全能力を注ぎ込み、
それに勝利することで自分の能力に満足して快楽を得る。

そんな人のような感じがするんです。
ただ単にマスコミとかでの発言から
私が勝手に思っている感想ですが。。。

大して年齢が違うわけではないけれど、
そのモノの考え方に世代間ギャップのようなものを感じます。
他の彼と同世代の人を知っているわけではないので偏見かも知れませんが。

昨日肯定したように競争原理そのものは有用だと思っています。
企業が生き残るためには、競争に勝つことは必須でしょう。
だけど、最終的な目的は何か人のため社会のために役立てることで
ありたいと、私、個人は思っているんですが、
ほりえもんには、その先が見えないんですよね。
彼が言ってた「世界一の会社にしたい」は、
勝って一番になることを目的にしていて、
何で一番になりたいのか、その先が見えないんですよ。
だから、ゲームに勝ちたいだけに見える。

他人に迷惑をかけない限り、そういう生き方もありかとは
思いますが、私は好きじゃない。

そんな感じかな、私がほりえもんを
そんなに好きじゃない理由は。

繰り返し訓練をすること

今日は、昨日言ってた3連ちゃんの最終日。

何をしていたかと言うと、ある種類の技能の集中的訓練です。
(私は、訓練させている方で、訓練自体はしていません。)
たった3日間ですが、驚くほど技能が伸びるんですよ。
その作業の中には、操作能力はもちろんだけど、
全体をみわたす力、手順を組み立てていく力、
表象から実際のものを想像する力、
細かい作業を続ける忍耐力と集中力
様々な能力が必要とされています。

だけど、繰り返しやることでどんどんレベルアップするんですよ。

毎年やってるんだけど、今回は量を昨年よりも増やしたんだけど、
やろうと思えばできるもんだなあと、感心しました。
競争原理と時間制限をいつもよりも明快に取り入れたんですが、
人間はその気になれば、すごい集中力を発揮するし、
眠っている能力が山ほどあるのだろうなと思いました。
もったいないねえ。。。
だってさ、ちょっと行き詰るとすぐにリタイアして
自分を守る子もいるんだよね。

「さあ一緒に考えよう!」って言っても、
考え方を訓練していないと、そうそうすぐには考えられない
だけど、少々キツクても何度も何度も考える訓練をしていけば、
当然、考える能力もアップする。

とりあえず何も考えずに訓練したり、
何も考えずに手や足を動かして何かをすることは、
じっと座って、頭だけで何かを考えることよりも、
結局、様々な考える能力を伸ばしていくことにつながるな、と
「実践のすすめ」というのは、こういうことかなと、
1回目よりも2回目がよくできたことを嬉しそうに話す人たちを
横目で見ながら、今日は思ったのでした。

人に振り回されている毎日

ただいま、私コーカサスモードになる余裕まったくなしです。
もうすぐだというのに、珍しいことですねえ。。。

今は、まだ職場にいるんですが、ちょっと休憩がてら書き込みまする。

昨日から3日間、明日まで、1日中、同じ仕事をしているんですが、
順番に出てきたものに、次から次へとダメだしをしてるんですけど、
疲れる(^^; 大体5時くらいになると、壊れてきます。

今日は超人バロム1の歌を思い出して歌っていました。
たぶん、誰も知らなかった。
超人バロム1は魔人がすごい面白いんですよ。

クチビルゲ、ウデゲルゲ

超人バロム1ってこんなんです?
http://www.urban.ne.jp/home/ak1go/tvhero6.html

バロム1魔人図鑑(クチビルゲを見たい人はこちら)
http://www.urban.ne.jp/home/ak1go/Brmmajin.html

ぜひ見てください。疲れた脳にピッタシです。

ところで、昨日の夜は今日就職試験で面接がある子が
「何を言ったらいいかわからん」というので、
1から100まで聞くんじゃないと、ボロクソに言いながら、
(私、本当にかなりキツイんです)
だってね、5時間くらいたってるのに、3行くらいしか書いてないんだよ。
仕方がないので、ちょっとだけ一緒に考えてあげました。
で、「最近、読んだ本とか聞かれたら、何も読んでないんだけど・・・」
というので、一緒に本屋にも行きました。

お礼にモスバーガーをおごってくれたけど(^^)

で、昨日はバレンタインデーだったじゃないですか!
私はそういうのはどうでもいい人なんですけど、
チョコレートをくれた人がいて、あっ今日はその日かと
思い出したわけですが、私はバレンダインデーだというのに、
こないだ伯方島で買った水団子をみんなにおみやげに
あげたのでした。
なんか、ちょっとバカっぽい感じでした。

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「善の誘惑」からエロス的愛へ

「誘惑」は、the seductive power
魅惑的な人を引き付ける力、そそのかす力。
このような意味です。

私が考える「善の誘惑」は、
「社会で楽な生き方をする」ことから引き離される方向に
誘われ、惑わされることです。

最終的に何かを決定するのは人の心、すなわち「内からの力」です。
「外から働く力」がきっかけとなり、「内からの力」を揺り動かす。
その「内からの力」には、善の心と悪の心がある。
それが葛藤するのが人間だと思います。

以下、ネタバレあるので隠します。

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犠牲的献身

前提として言っておきますが、
私が言っている無償の愛=アガペーは
人間を大切に思う心、尊重する心、善の心のこと。
私は、人は必ずそれを持っていると思っています。
ただし、性善説をとっているわけではないですよ。
人間はもともと善も悪もどちらも持っていると思ってるんです。

私は白墨の輪の審判の1回目と2回目の間に、
グルシャの気持ちの変化はないと思いました。
1回目には、無意識に選択した ミカエル>グルシャ
2回目には、意識的に選択した ミカエル>グルシャ

私はこの心持ちは「犠牲的献身」という言葉がぴったりと思ってます。

あまりキリスト教で語ると、退かれるかなと思いつつ語ると、
この「犠牲的献身」の究極の形がイエス・キリストが十字架にかかったこと。
簡単に言えば、自分を犠牲にしてでも他者のために行動することです。
無償の愛は、必ずしも自分を犠牲にしなくてもできますよね。

グルシャは、パンが「4つあったら3つ♪」「7つあったら6つ♪」
ミカエルにあげると唄います(数は違ったかも)。つまり、グルシャは、
このときすでに ミカエル>グルシャ な気持ちを持ってる。
だけど、一方で普通に、当然のように、 
「ミカエルが自分を母親として愛してくれることを」望んでいます。
それは、前の日記に書いたように、エロス的な愛がもたらす見返りを求める心。

「犠牲的献身(ミカエルのため)」と「見返りを求める愛(自分のため)」
この二つが混在しながら、グルシャは1回目を迎えるのです。
そして、彼女がすごいのは、頭ではなく心に従ったことです。
いろいろ余分なことを計算すれば、彼女は引っ張らないといけないわけですが、
グルシャは自らの心に従ったときに、つまり無意識に
「自らの犠牲」を選択した。

そして、アズダックに訴える。はっきりとは覚えていないけれど、
確か、「もう一度引かせてくれ」と言ったのではなくて、
アズダックに「まだミカエルが少ししか言葉を覚えてないから」と言ったと思います。
「白墨の輪の審判」そのものを拒否したかったのです。

白墨の輪の審判では、自分は引くことはできない、つまり、
「犠牲的献身」が勝っていることをグルシャは1回目ではっきりと悟った。
だから、2回目は意識的に手を引っ張らなかったのだと思います。
2回目はもう手を握っている時に脱力していて、
グルシャは心の中で泣いていたのではないでしょうか。

この「犠牲的献身」は「ミス・サイゴン」のキムにも通じる究極の愛です。
私自身は、以前、「セツアンの善人」の感想で言ったように、
「パンを半分こにはしてあげたい」
今の私には、これがせいいっぱいでしょうね。

さびれた商店街

今日は、調査に行ってきたわけですが、
明治時代の軍服発見!
日露戦争の頃の中尉さんのものです。

帽子もかぶらせてもらっちゃった。
フォトにアップします!と言いたいところですが、フォトには上等の畳をアップします。たぶん。

しかしねえ、洗濯をここんところしてなくて、
とうとう靴下がなくなってしまいまして、
思わず、本日の調査中に買いました。
明日の靴下は確保ですが、マジで洗濯せねばやばい。

それから、今日はものすごくさびれた商店街も通ったわけですが、
ポツポツ開いてる店の一軒にファンシーショップがありまして、
おじいさんとおばあさんがやってました。
そこは私が店にいる間も小学生の子が入れ替わりモノを買いに来てました。
そこで、私もちょっとしたものを買ったんですが、
そしたら、大人の私にもおまけで駄菓子を4つも(@@)つけてくれた。
いやあ、ものすごく嬉しかったんですけど、わたし。ガキなのかしらん?やっぱし。

それから、思い出しましたが、その商店街(距離が長い)のちょうど真ん中に公園があるんですよ。それで遊具がみえたんで子ども用だろうと思ってたのですが、近づいてみてびっくり、子ども用ももちろんあったんですけど、大人用のストレッチの道具みたいなのがいっぱいあってそんなもの初めて見た私は感激でした。もちろん一通り試しましたよ。

でもねえ、外は寒い。公園も寒い。人が少ない。季節のいいときにまた来てみましょう。

この子にだけは

「セツアンの善人」に「この子にだけは善人でいよう」というセリフがあります。
私は、最後の裁判のときに、このセリフを思い出していました。

だから、「セツアン・・・」じゃないって(^^;
裁判するの好きだよね、ブレヒトさん。
とりあえず、以下、「コーカサスの白墨の輪」ネタバレしてます。

グルシャは(この子にだけは私を人間扱いしない人になって欲しくない)
そう思って、「私の子です」と言うのです。

以前、「アガペー」「エロス」「フィリア」の3つの愛について
日記に書きましたが、

私は、最初にミカエルを置き去りにできなかったとき、
アガペーの愛、無償の愛を発揮したのだと思っています。
ミカエルを見捨てられなかったのは、人がもともと持つ善なる心。

だけど、ラストの裁判のときに「私の子です」と言うグルシャは、
「特別」という感情を抱くようになっていたと思います。

「人間一般を大切に思う心」から「特別な人を愛する心」へ
ラストの裁判のときには、グルシャにとって
ミカエルは、他の人たちから区別される「特別」な存在になっていた。
エロス的な愛がグルシャに生じていたのだと思うのです。
でも、「特別」であって「束縛」ではないですよ。

「この子にだけは」

他の誰(たとえばナデラ)が自分(グルシャ)を人間扱いしなくてもかまわない。
だけど、「この子(ミカエル)にだけは」自分(グルシャ)を認めて欲しい。
エロスの特別の愛には、逆に必ず見返りを期待してしまうところが
あるのだろうと思うのです。ミカエルが自分を人間とみてくれるように
なるという見返りをグルシャは求めているのだと思います。

私、この気持ちは非常によくわかります。
たとえばね、私のことを悪く言う人がいるとします。
でも、その人が私にとってナデラであれば、私は悲しくない。
だけど、もし私の愛している人、大好きな人、信じている人が、
私のことを悪く言う人になったら、それはとても悲しい。

グルシャのミカエルに対する気持ちはこういう気持ちだと思うんです。
私が大好きな人たちは大人、だから私は
その人たちが私を悪く言うとは思わないし、
放たれる悪口を信じないだろうと思います。
私は、分別ある大人であるその人たちを信じることができるんです。
でも、ミカエルは子どもです。これから環境に影響されていくのです。
「せめて言葉をもう少し覚えるまで」
このセリフ、私はものすごく重く受け止めてます。
人を豚と呼ぶ言葉を教えたくはないのです。

グルシャが手を引けなかったのは、
前にも書いたとおり、つねに自分のことではなく、
ミカエルのことを思っているから。

ナデラはなぜ手を引いたか、それはナデラがミカエルをモノだと
思っているから、グルシャはミカエルを人間だと思っている。
引けばミカエルが痛がり傷つくことがわかっている。
1回目は、ミカエルが傷つかないことを本能的に選択してしまった。
2回目は、引かないとミカエルが自分を人間とみてくれなくなるかもしれない。
葛藤の中で、ミカエル>自分 どうしても引けなかったんだと思います。

①小さな命を救うことは人として正しいこと(置き去りにしない)
②特別の存在へ
③その子のためには自分の思いは犠牲に

①→②→③と変化していったのです。
本当にミカエルのことを思えば、ナデラに渡すことはできない。
だけど、引きちぎることはできなかった。
それは、ミカエルにとってナデラと行くことよりも
もっとひどいことだから。

私は、グルシャをいい娘にとらえすぎでしょうか(^^;

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たこ飯づくりの正体

昨日は、わたしは伯方島にいました。
パソコンは持っていったのですが、PHSに電波が届かなくて
書き込みをアップできなかったのでした。

伯方島というのは、しまなみ海道の今治市に近いほうのとある島です。
この付近の3島5町でグリーンツーリズムをやっていて、
いろんなプログラムが用意されているんですが、
とある研究会(といっても実質3人の会)で、その体験と世話役の人への
ヒアリングをしつつ、たこ飯をつくりました。

正確には・・・
生きている蛸をさわって、もんで、ぬめりをとって、足を裂いて
ぶつ切りにしただけです。これが体験の一つのプログラムなんです。
結構、修学旅行生たちが農村体験・田舎体験に来るらしいです。
人気のプログラムには「潮流体験」などがあるんだそうです。
次の日にオカから潮流を見ましたが、アレは体験したら面白そう。

このしまなみグリーンツーリズムをつくるときに参考にしたのが、
水俣市が力を入れている環境教育のプログラム
水俣病という負の遺産を逆手にとって、環境教育として
修学旅行生たちを誘致してきてるのはすごいですよね。
もうひとつは、最後の清流?四万十川を利用した
高知県幡多郡のグリーンツーリズム
どちらもオリジナリティにあふれてます。

しまなみのグリーンツーリズムも市町村合併などで
なかなか困難な問題も抱えているようですが、
この数年で利用者が激増していて、
こういう領域は需要があるんだなというのがよくわかります。

いつも思うのですが、こういう地元の人たちが町や村の活性化の
ためになにかをするときには、人の力が大きいなと。
こういうのは、儲けようという発想から入ると続かない。
いいものに、結果としてお金もついてくる。
だからこそ、その何かをすることに思い入れがあって、
好きでないと、やっていけないんですよね。

今日、お会いした方も非常にパワフルでした。
ちょうどうちの母親と同じくらいの年齢でしたが。
年とってからのほうが忙しいっていってらっしゃいました。
この体験プログラムをするために、海外や東京、先進地など
あちこちに勉強にもいってられるし、必要だと思ったら、
英会話にもチャレンジするし、パソコンもする。すごいですよ。
でも、結局、担い手は、元気で交流好きの高齢者なんですよね。

若い人たちは、最近はみんな共働きでどこかに働きに行っていて、
自由に使える時間がないから、誰かに任せたいと思っても、
誰も受け取ってくれないともおっしゃってました。

聴いていて思ったのは、何十年も前から地域でのグループの活動が
あって、それが母体になってるんですよね。その地域のグループ活動
というのは、これが農村の特徴でもあるんですが、
生活改良普及グループってのがあること、
これは今は名前が変わって生活研究グループになっているらしいです。
何十年のコミュニティの蓄積が大きいなあと思いました。
昔は、農山村漁村などの生活改善がテーマだったわけですが、今は
逆に、都市生活改良の指導が必要なんじゃないですかね(^^;

それに、たまたま、これは伯方島の特徴なんだろうけど、
伯方島ってのは「伯方の塩」つまり塩業が一般的は有名なんですが、
造船と海運の町らしくて、わりと裕福なんですよね。
だから、農業や漁業を専業でやってる人ってのはいないらしいんです。
畑は持っているけれど、それは女たちが
みかんの木を植えたり、野菜をつくったり副業。
船も持っているけれど、それは定年後の男たちが
釣に行って魚を釣ってくる趣味。

畑の話で面白かったのは、
みかんは運ぶのが重いからとブロッコリーに変えた人が、
ブロッコリーは毎日取りにいかなければいけないので、
また違うのに変えたという話、
そんなにコロコロ変えるもんなんだとちょっと驚きでした。
男の人の釣ってくる魚たちは、
さきの体験プログラムで使われる食料にもなります。

それから生活研究グループでは、毎週日曜に朝市をやってるんですが、
そこで売るものも、畑で取れたものや釣ってきた魚たち。

なんだか、とっても優雅な感じ。。。
がするのは、私が街の人間で、その苦労を知らないからかな。

なんとなく、で話さない人

私、石破さん好きやわあ。
いしばさんは、前の防衛庁の長官さんです。
すごく理路整然としてるまともな人。
「なんとなく・・・」で話さない人。
「・・・に決まってるから」からはじめない人。
決して声高に叫んだりして誤魔化すようなことをしない人。

防衛について、ものすごい量の知識を持っていることが
このすごい分析力の背景にあるんだよね。

勉強しよ。。。。

恐ろしいのは、善の誘惑

「コーカサスの白墨の輪」ネタバレしております。

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久しぶりに会った友達

楽しかった。三軒茶屋のCaffe Bossaってとこで
一緒にご飯を食べました。この店ねえ、よかった。
昭和30年代くらいの香りが少しする店です。
そのうちPhotoに写真アップしますね。
2階は8席くらいで、1階はカウンターで、
OPENが11:45なんだけど、40分くらいだったんだけど、
入れてくれてね、だから、2階はしばらくの間、貸切状態でした。

「コーカサスの白墨の輪」を一緒に観ました。
変わってなかったなあ。ワインを舞台で売り始めたら、
「ねえ、ワイン飲みに行かない?」って、
とっとと飲みに行きましたよ。彼女は。
で、「ガチョウだよ」って言って例の作り物のガチョウに触ろうとしたら、
通りすがりの役者さんが、「ガー」って(笑)
彼女は驚いて手を引いてました。
そのまま2幕はじめの裁判のシーンも参加して、
すごく楽しそうだった。

嬉しいなあ、楽しそうな人が横にいると幸せな気分。
ましてや、松さんが参加してるお芝居で、
とっても喜んでくれたので、とっても嬉しいです。

その、彼女、別れ際に、私に。
「そのままで生きられるんだ」
だって(^^;

私も一応、束縛もあるんですよ。
あんまし、束縛を受けなくてすむ環境にはいますけどね。

「コーカサスの白墨の輪」で、
農家の人たちがミカエルを育ててくれそうなのがわかった後、
グルシャは喜んで、そして悲しむじゃないですか、
私、あのシーン大好きなんですよね。

あのとき、「自由になったから悲しい」って言う言葉に、
ほんのちょっとだけ、身につまされてます。
迷惑かけられても、それが嬉しい相手っているんだよね。

グルシャに神を見た

本日は下の友達の感想を先に読んでくださいね。

友人二人の感想を読んで思いました。
ネタバレしてます。

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一瞬の出来事にあれっ?

さて、また違う友人の感想です。
ネタバレありなんで隠します。

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「育児は育自」

本日は友人たちの「コーカサスの白墨の輪」の感想をご紹介。
以下、毒ドクモンスターさんのネタバレありの感想です。

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どこの国にもある今のお話

2回観るとずいぶんよくわかるね。

以下、ネタバレしております。

「虎の子が仔馬にミルクをあげたとさ♪」
「四人の将軍・・・一人目は・・・♪」
ちょっとだけ、フレーズが出てくるようになった。
今日の鼻歌ソングでした。わけわからん唄だけどね。

1回目は役の人の名前も変な名前で覚えられないし、
大公のポジションもわかんないし、
確か産みの親は知事の妻だったよなあ、じゃあ大公はなんだ?
って感じだったんだよね。今でもなんで公爵がビビってんのか
明快にはわかんないんだけどね。
そういうのを、1回目の時は頭をフル回転させながら観ないといけない。
おまけに、外国人の人の言ってる日本語も慣れてこないとわかりにくいし。
でも、2回観るとすでに役柄がわかっているので、
その役の人が何をするのかに注目してみることができて、
よくわかるようになる。

でも、外国人の日本語はやっぱり聞き取れなかったりもします。
だけど、外国人の人の言う日本語こそ、音の演技だと思うんですよ。
意外にこれがいい。
とくにお気に入りが、黒人の「鉄シャツ」の人。
私、この「鉄シャツ」も今さっきパンフレットで知りました。
ずーっと「敵サツ」って思ってた(^^;

で、その黒人の鉄シャツの人。怖いんですよ。
だけど、日本語が下手でほんの少しマヌケ感が漂うんですよ。
それがイイ! 
それに、コミュニケーションって言葉が通じなくても、
怒ってるなあとか、笑ってるなあとか、
悲しそうだとか、喜んでるなあとか、わかるじゃないですか。
言葉がわからなくても、感情がわかればいいんだろうと、
思います。

言葉使ってたってね、裁判のシーンのアズダックとシモンの
比喩というか、お話の引用というか、そういうのは、
さっぱりわからないもの。
言葉つかったって理解できないもんもある。
じゃあ、たぶんいいんだろう。言葉にまるまる頼らなくても。

それと、知らない国の知らないお話的な感覚を私が受けるのは、
台所女中もピンと来なければ、兵隊さんもピンと来ない、
生まれたときからの身分の差というもの自体が、
現代の日本のさらに狭い世界に生きている私には
ピンと来ないからでしょうね。

でも、今の日本、階層分化が進行していると思います。
金持ちは金持ちの環境の中、金持ちになる教育を受け、
貧乏人は貧乏人の環境の中、貧乏人として生きていく術を身につける。
金で買わなければならない自由は、金持ちにとっての自由。

遠い国の昔のお話のようでいて、
どこの国にもある今のお話なのかも知れない。

世渡りには利口じゃないグルシャだけど、
幸せに生きることが、黄金の靴を履けることでないことを知っていた。
決して宮殿に住んで金持ちになることではないことを知っていた。
ミカエルに幸せに生きて欲しかった。
でなきゃ、罪人とののしられる覚悟で裁判に出るはずがないものね。

音演劇

昨日は、お酒が入っていたのであんな感想ですが・・・
今日は、もう少しまともに書こう。

このお芝居は声がいい人が集まっている。
音楽劇と言っているけれど、歌はやっぱり少ないと思うんですよ。
でも、音にはあふれてるし、声も含めた音演劇という気がします。
音楽はね、どこかの国の民族音楽というのは、
私たち日本人の心に言葉としても旋律としても残りにくいと思います。
「セツアンの善人」のときの歌はポップスのような気がしたけれど、
今回の音楽の奏でる世界に、自分自身が溶け込むのに少々時間がかかる
気がします。だから、参加型の舞台といいながら・・・
実は、どこか遠い国の遠いところのわけのわからないお話的な
感覚を舞台の間中、受け続ける。私だけかな?
慣れれば、また変わってくるのかも知れません。

松さんの本当に透明でかわいらしい声はグルシャの純粋さを際立たせる。
社会によってゆがめられてしまっている人が本来持っているはずの
美しい心持ち、それを素直にストレートに表現する声だと思う。
怒りの声も実に自分の心にストレートで気持ちがいい。

一方の毬谷さん、今回、はじめて知ったこの方は、
実に美しい声と七変化の声をしておられました。
おばあさんの話、よくわからなかったので、
戯曲の本をチェックしようとは思ってるのですが、
あのおばあさん、素晴らしかった。

串田さんの声というか、しゃべり方はいつものように
聴きづらかったです。いつも思うのですが、
彼は、わざと演技をしない(語弊があるかなあ)ようにみえます。
ストレートでない裏表のある人間をみせているようにみえます。
人間のいい加減さとでもいうのかなあ。。。

兵隊さん役の谷原さんはいい声だった。
とくに戦争から帰ってきてからのいい人っぷりが際立ってた。
声が「僕はいい人です。正直者です。」って言ってるように聞こえます。

今回の芝居は、音演劇。
今日は、そういう視点で観てみようかな。
本当は、戯曲を読んでからみようと思ってたんだけど、
時間がなくなっちゃった(^^;

一個書き忘れました。
ネタバレしますが・・・

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はじめてのコーカサスの白墨の輪

私、今回のこの「コーカサスの白墨の輪」は
主役は松さん演じるグルシャなんだろうけど、
アズダックのお話だと思ったんですよね。
それと、誰にも感情移入をしにくい話。

いや、グルシャの気持ちを思って、
私、結構、泣いてたんですよ。
だけど、普通の前宣伝で結果を知っていたから、
それがなければもっとグルシャに感情移入して
子供が奪われてしまうかも知れないことに
ドキドキしたんだろうなと思いました。

話自体はまったく難しい話ではないんですよ。
誰でもわかる話。だけど、その話から何を言いたいのかが
ピンとはこないんですよね。グルシャは実に単純だから。
だから、私はむしろアズダックがなぜその判決を下したかに興味がある。

それから、3時間半はまったく長いとは感じませんでした。
なぜだろう? 

今日は2列目の席だったんだけど客席との一体感は抜群。
途中、稲葉のおっかさんが横に座ったり、
横の通路をドンドンと人が走り抜けて行ったり。
仮設だから人が走ると振動するんです(笑)。
近くで見る黒人の人はやっぱりちょっと怖かったり。
幕間の裁判のシーンも楽しかった。
あれば自分も芝居に参加してる気分にさせてくれる。

演出はねえ、本当にすごいと思いました。
私は大好きですね、ああいう手作り感にあふれる舞台。
音がね、がちょうの声、赤ちゃんの声、犬の声、戸の開閉の音、
水の流れる音、川に入っていく音、風の音。
全部、手作り。セットといえるようなセットもない。
家をミニチュアにしてるのは、イメージ沸いてよかった。
ミニチュアの城が焼けたり、ああいうミニチュアでの描写は、
客観視の演出の助けになっているのかも知れないなとちょっと思う。
そういえば、戦争そのものの描写はなかったような気がするな。

キャストのことはまた今度書きますね。
だけど、一言言わせて・・・
友達も言ってたのですが、稲葉さんと田中さんソックリ。声も似てる。
それから内田さんと春海さんの区別もつきません。

それから、松さんはいつもどおりの松たか子です。
私の中でのサプライズはないけれど、本当に声がいい!
歌も上手くなっているし・・・
演技は一幕と二幕ではもっと落差があってもいいのかも知れない。

でもねえ、これだけ音楽が曲も詞も思い出せないのも珍しい。
歌ももっとあったらもっと楽しかったのにな。
音楽劇というわりには、歌が少なかったのが残念でした。

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