スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

犠牲的献身

前提として言っておきますが、
私が言っている無償の愛=アガペーは
人間を大切に思う心、尊重する心、善の心のこと。
私は、人は必ずそれを持っていると思っています。
ただし、性善説をとっているわけではないですよ。
人間はもともと善も悪もどちらも持っていると思ってるんです。

私は白墨の輪の審判の1回目と2回目の間に、
グルシャの気持ちの変化はないと思いました。
1回目には、無意識に選択した ミカエル>グルシャ
2回目には、意識的に選択した ミカエル>グルシャ

私はこの心持ちは「犠牲的献身」という言葉がぴったりと思ってます。

あまりキリスト教で語ると、退かれるかなと思いつつ語ると、
この「犠牲的献身」の究極の形がイエス・キリストが十字架にかかったこと。
簡単に言えば、自分を犠牲にしてでも他者のために行動することです。
無償の愛は、必ずしも自分を犠牲にしなくてもできますよね。

グルシャは、パンが「4つあったら3つ♪」「7つあったら6つ♪」
ミカエルにあげると唄います(数は違ったかも)。つまり、グルシャは、
このときすでに ミカエル>グルシャ な気持ちを持ってる。
だけど、一方で普通に、当然のように、 
「ミカエルが自分を母親として愛してくれることを」望んでいます。
それは、前の日記に書いたように、エロス的な愛がもたらす見返りを求める心。

「犠牲的献身(ミカエルのため)」と「見返りを求める愛(自分のため)」
この二つが混在しながら、グルシャは1回目を迎えるのです。
そして、彼女がすごいのは、頭ではなく心に従ったことです。
いろいろ余分なことを計算すれば、彼女は引っ張らないといけないわけですが、
グルシャは自らの心に従ったときに、つまり無意識に
「自らの犠牲」を選択した。

そして、アズダックに訴える。はっきりとは覚えていないけれど、
確か、「もう一度引かせてくれ」と言ったのではなくて、
アズダックに「まだミカエルが少ししか言葉を覚えてないから」と言ったと思います。
「白墨の輪の審判」そのものを拒否したかったのです。

白墨の輪の審判では、自分は引くことはできない、つまり、
「犠牲的献身」が勝っていることをグルシャは1回目ではっきりと悟った。
だから、2回目は意識的に手を引っ張らなかったのだと思います。
2回目はもう手を握っている時に脱力していて、
グルシャは心の中で泣いていたのではないでしょうか。

この「犠牲的献身」は「ミス・サイゴン」のキムにも通じる究極の愛です。
私自身は、以前、「セツアンの善人」の感想で言ったように、
「パンを半分こにはしてあげたい」
今の私には、これがせいいっぱいでしょうね。
スポンサーサイト

コメント

 

コメント

 
管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

Powered by FC2 Blog

FC2Ad


Copyright © マツタコA All Rights Reserved.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。