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参加型よりもシャッフル

本日は、1コ下のkeyさんの感想から先に読んでくださいね。
というかですね、もうちょっとまとめてから書けという感じではあります。
すみません。

以下、隠します。 19日に田中梨香さんが私たち普通の観客に
話しかけるシーンを体験しながら思ったんです。
私、試しに自分の席からこの2幕はじめのシーンを見てみたんです。

このシーンに限って言えば、
また、5~6列目ぐらいまでの座席の人に限定すれば、
(それ以上、上の感覚はわからないので)
舞台に残らされた人だけでなく、普通の座席に座っている観客も
舞台の中に取り込まれてました。

裁判のとき、アズダックは間違いなく私たち観客に語りかけます。
そして、そのリアクションを期待します。
「ワイロだ!」と叫ぶこと、「どすこい」のウェーブ

前に言ったように、私はどこか客観視してしまってはいたのですが、
それはむしろ私の個人的特性かも知れません。
こういうのは、白けていたらバカなだけなので、
単純に一緒になって騒いだもの勝ちって感じがします。
だから、もちろん、一緒になって叫んで、ウェーブをして、
ほとんど意味ないなあと思いながら楽しみました。
つまり、白けないために私は何も考えないようにしてました。

もし、これが作品の中の1シーンであるなら、
アズダックの裁きのいい加減さを表そうとしているのかも知れません。
この後のシーンで出てくるアズダックの裁きは、
社会から逸脱している者だからこそできる正しさを持った裁きなんですけどね。
これは、以前に書いたのでそちらを読んでください。

だけど、こういう参加型のときにノレルかノレナイかは
かなり個人差が激しい気がします。
そして、ノレル・ノレナイと異化効果は別物のような気がします。
一緒になって騒いで終わりというほどの、なんというか
バンドのライブなんかでノセられる、ああいうものが演劇のカタルシス
なのだとしたら、この芝居には、そういうものはないだろうと断言できます。
ラストダンスの終わらせ方も早すぎず、遅すぎず絶妙のタイミングです。
あれ以上やってると、舞台に上がった人たちだけの楽しみになってしまう。

ただ、参加型演劇の他の例を知っているわけではないので、
参加のさせ方によっては、カタルシスのようなものが生まれるのかも知れません。

そして、やはりこの観客参加シーンは劇(A)と劇(B)の境界線上に
位置づけられているのだと思います。
このシーンで客席の通路に座り、私たちに話しかけた田中さんは、
このとき、劇(A)の農民だったのだと思いました。
もともとの戯曲の劇中劇の劇(A)の舞台は、ソ連の第二次世界大戦末期のコルホーズで
国の復興を話し合う農民集会が舞台なんです。
そして劇(B)はその余興で話されるお話。
ですから、話しかけられた私たちもまた劇(A)の農民として話しかけられたのだと思います。
田中さんは劇(B)の登場人物であるアズダックを名指しで野次ります。
が、劇(A)の農民が真ん中の広場で進行する劇(B)に、
自分の感情をぶつけている農民と考えれば、非常にすっきりと納得できました。

今回は、参加型よりも二つの話を交互に登場させることによって、
いっぽうの話がどうなるのだろうと思ったら、アズダックが出てきて
また、新しく出てきた登場人物たちと話をつくっていって、
そちらに話を集中させなくてはならなくなり、と思ったら、
まだ舞台上にアズダックたちがストップモーションで残っている中に
今度はグルシャが飛び込んできたり、
keyさんが言われたように、どちらかの話に感情をどっぷりと
浸りこませない効果というのは、このシャッフルによって、
よりつくられていたような気がしますね。
そういうのを異化効果と呼ぶのでいいのでしょうか。ちとわからないけど。

場面を転換させるのに、かなりストップモーションをつかっていたり、
白黒の照明にしたり、、、、いかん。
ああ、もっと書きたいけど、やっぱり仕事に戻ろう。。。スゴスゴ
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