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『悪』の心の芽生

昨日アップした友人(お犬さま)の感想の中のこの部分

>『善』=『ミカ○ル』と考えたら面白いかなぁ~って。

以前観に行った2/5-6日と今回観に行った2/19-20では、
いくつか松さんの芝居が変わってる部分があったんだけど、
その中で大きく変わってた部分が、
ミカエルが友達と遊んでるシーンでのグルシャの反応。

このシーンを少し振り返っておくと(少々間違ってるかも)、
ミカエルが近所の子どもたちと遊ぶシーンです。
その中のボス的存在の子どもが首切りごっこをやると言って、
子どもたちに役割を言い渡していきます。
首を斬る侯爵役はそのボスの子です。ミカエルは首を斬られた知事役です。
一番小さいから、一番簡単な役なんだそうです。
子どもたちは、強い侯爵が弱い知事の首を斬ったって
遊びにするくらいに、みんな知ってるんですよね。
そして、もちろん首を斬られた知事はミカエルの実の父です。

しかし、ミカエルは「イヤだ、首切り役をやりたい」といいます。
それで、子どもたちはグルシャにミカエルが言うことをきかないと
訴えます。グルシャは「あひるの子は・・・」といいます。
大事なセリフなんでしょうが、意味もよくわからず覚えてもいません。
みにくいあひるの子の話から例えてるのかな?(^^;
今はあひるの子のように弱いけど、そのうち大きくなったら変わると。。。

そして、ミカエルは首切り役を一回だけやらせてもらえることになり、
ボスの子に思いっきり刀にみたてた棒を叩きつけます。そして、
やったなコノヤローみたいな感じで全員追いかけて退場していきます。


このシーンを1回目観たときは、首切りごっこって・・・趣味わるい
このときにすごく思ったんですよね、それが遊びになるような世界なんだって。
そして、ミカエルが首を斬られる役なのも首を斬る役をやりたがるのも、
ものすごい皮肉だなあと。ミカエルは父親を殺す役をやりたがるんですからね。

でも、1回目のときは、グルシャは笑ってその遊びを観てたんです。
そのときに「?」って思いました。
私なら子どもにそんな遊びはさせたくないなって思いました。
だけど、彼女がごく普通に笑って見てたから、この世界では、
強いものが弱いものを殺すのが普通なのかと思いました。

だけど、2回目では芝居が変わっていた。
グルシャは、首切り遊びをやるとボスの子がいい始めた時から、
一つ一つの言葉に反応してました。
この反応をどう解釈したらいいかよくわかってないのですが、
子どもに首切り遊びなんかさせたくないという私の思いと
あまり変わらないのかも知れません。

だけど、ミカエルが「首切り役をやりたい」と言って、
他の子どもたちが「ちゃんとやらない」とグルシャに訴えて来たとき、
グルシャはミカエルを強く強く抱きしめるのです。

一つの解釈として「他の子どもたちに負けない強い子になって」という
気持ちの表現というのがあるのかも知れません。
その後のセリフで「あひるの子・・・」と言ってますから。

でも、もう一つの解釈として、
「首切り役を望むような子になって欲しくない」という思いを
持っていたんじゃないかと思いました。
もし、この思いがあったなら、これは後の「コーカサスの白墨の輪」の裁判
での「グルシャが語らなかった言葉」の背景となる重要なシーンだと思います。

ここでようやく『善』=『ミカ○ル』説とつながってくるんですが、

人はもともとは生存したいという本能を持っていると思います。
最初の置き去りにされたミカエルは、ただただ生きようとしていた。
それは、大人になったら生じてくる生存競争、つまり誰かの生を
踏みにじって生き残ろうとする生とは、異なるもの。
それは、『善』ととらえてもよいのかも知れない。

だけど、人間はもともと善も悪も持ってるんだろうと思ってまして、
ミカエルも普通にああいう首切りごっこをするような社会の中で
生きていて、『悪』の心が芽生えつつあったんじゃないかなと思います。
グルシャは、あの抱きしめていた時に、それを危惧していた。

そう思うと、よくわからなかったあのシーン・・・
納得できる気がします。
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