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母性は育つのか!?

串田さんの芝居は目をみはる。
だけど、それは本を活かしてるのかというと
よくわからないなあと、こないだから思ってる。
どのようなカタルシスであれ、場当たり的な満足をさせてしまうことは
確かに思考を奪うよなあ、でも、満足をさせることは必要なことだし。。。
でも、このことをちゃんと考えるのは薦めてもらったブレヒトの本を
読んでからにしようと思う。

今日は、もうすぐ観るから、その前に頭の中を整理しとこう。

私は最初に観たときに、これはアズダックの話だと思った。
アズダックの裁きの理由を知りたいと思って考えた。
アズダックの裁きを肯定することは、
社会(法や制度)が必ずしも正しくないことを表していた。
アズダックの裁きについては前の日記をどうぞ

今日は、もうひとつの話、グルシャの母性の話。
他のサイトで母性についてとっても興味深い書き込みを読んで、
そこでもちょっと書いたけど、母性のことを整理しとこう。

グルシャは旅をする中で確実にミカエルに対する気持ちを変貌させる。
小さな命を救うことは人として正しいこと(アガペー=人類愛)
 → 特別の存在へ(エロス的心の見返りを求めてしまう愛)
 → その子のためには自分の思いは犠牲に(犠牲的献身=キムがタムに見せた愛)
こんな感じで、今までも書いてきました。

そして、「母性」。
女性に限定して見えるこの言葉に最初はちょっと抵抗がありました。
なぜかと言うと、最初のアガペー的な部分
「人間を愛する気持ち、大切に思う気持ち、尊重する気持ち」
こんな感じが「母性」なのかなと漠然と考えていたからなんです。

だけど、あるサイトで、こういう内容の書き込みがありました。
「橋を渡ったグルシャがグッと母の顔になっていった」
「グルシャが本当に段々と母の顔になっていくのには感動すら覚えた」
「生んでいないだけに、経験が彼女を母にして行く」

橋を渡るシーンの重要性について書き込みは続きます。
「グルシャはそれ(出産の体験)を経験せずに母になった。
だからあの橋での経験が大事だったんではないかと!!」

自分の命を賭けてミカエルを守るグルシャ、
この橋を渡ったことがグルシャの出産体験であって、
この体験をしていなかったら、グルシャは白墨の輪で
ミカエルの手を引っ張っていたんじゃないか・・

とそこには書かれていました。

「生きるのも一緒死ぬのも一緒」といいながら橋を渡る
それがグルシャを母親にした。
つまり、そこで本当の母性が目覚めたのだとしたら、

それが、私が言うところの「犠牲的献身」の目覚めなんだろうと思います。
もし、それを母性と呼ぶのなら、
そして、グルシャはミカエルと一緒に生きることで母性を生み出したのなら
それは女性に特有のものではなく、男性も一緒に生きることで得られるのでは?

産みの母親は最初から、子どもがこの世に生まれ出る前から、
子どもと一緒に生きているわけですから、
この体験をしなくても母性を持っていることになる。

でもナテラさんに出産の体験がありながら母性がないのは、
やっぱり子育てをしなかったからなんでしょうかね。
たぶん、彼女の心の中にも母性はどこかにあるんだと思うんです。
人間だから。。。
でも、ミカエルをちゃんと見たことないんじゃないのかな、ナテラさんは。
だから、気づかなかったんだね。

私は「エロス的な欲」は人間である限り必ずあると思います。
最初から最後まで徹頭徹尾「自己犠牲的な母性」を持っているわけではない。
どちらかに確実に自分が置かれているものではなくて、
つねに揺れ動いているもののような気がします。
それが、子育てや一緒に生きることの体験を通して、
そして、そこに何を感じるかによって、
どちらかの気持ちが強くなっていく。そんな気がしてます。 Comments

もし、論点ずれてたらごめんなさい。

母性っていうのはもともと備わっているものだと思います。
母性って言葉の定義にもよるのかも知れないけど。

母性本能って言葉があるように、母性とは本能。
丸くってころころしたものがかわいい!と思うのが母性。
かわいい!と思うから守りたいと思う。
女の子が人形遊びをするのは母性ゆえという考えがあります。
でも、男の子でもかわいい人形で遊ぶのが好きな子もいます。
だから、管理人さんの言うように母性はべつに性別には確かに関係ない。

けれど、女性に強いと言われるのは母っていう字が、
女性の乳房から出来たと言われることに関係するように思います。
子どもを母乳によって育てるから女性には男性よりも
母性が強いと言われる所以だと思う。

でも、女性らしさ、男性らしさが曖昧になっている現在にとって、
女性だから、男性だからという言い方はおかしいのかも
しれないけれど、環境が人を育てるという説があるように、
女性という身体を環境と捕らえるとすれば、女性の方が、
乳房をもっているという環境で育つ分、男性よりも母性が
一般的に強く育つと言われるのは、成り立つのではないかと
私は思います。
もちろん、中には子育てを放棄するゴリラがいるように、
ナテラのような女性も存在するわけですが。

>「生きるのも一緒死ぬのも一緒」

これも捕らえ方によると思うんだけど、私はこの考えは好きじゃないです。
誰かのために死ぬ、または道連れにするのは私は好きじゃないし、
それは決して相手のためにはならないと思っているからです。
それは自己満足だと私は思っています。
最近、一家心中のニュースとか多いですけど、
それって、私は子どもを道連れにするのはおかしいなぁと思ってます。
「ミカエルのためなら危険を顧みない」
という意味で「生きるのも一緒死ぬのも一緒」と言っているのなら、
そんな嫌いではないけど、ここのシーンって、グルシャも橋を
渡らないと危険が迫っているシーンですよね。
だから、どういう意味で「生きるのも一緒死ぬのも一緒」って
言っているのかなぁと思うシーンでもあります。
パンの歌があるから、多分、「ミカエルのためなら危険を顧みない」
って意味の方が強いのかも知れないけど。

>最初から最後まで徹頭徹尾「自己犠牲的な母性」を持っているわけではない。

私もそれはそう思います。
そんな常に自分以外のもののために人は生きられないと思います。
自分を守るっていうのも本能だと思いますから。
commented by ちくわぶ posted at 2005/03/04 02:02


ちくわぶさん、コメントありがとうございます。
自分の考えをいろいろと展開できるので、コメントは大歓迎です。
そうだなあ、「母性の目覚め」だけじゃなくて、「エロス的な欲」の方もあわせて書くと、見えてくる気がしますね。

以前の「愛なんていろいろ」って日記で書いたように
そして、この日記でも書いてるように、
人間にもともと備わっている「愛みたいなもの」が、
環境などの外的要因によってどうにでも変化していくものなら・・・

「母性」って言葉を部分的な愛に使わない方が
「母性」が育つかも?っていうのをよく表現できるかも知れませんね。

なので、最初にグルシャがミカエルを拾うところで
私がアガペーの愛だろうと考えてたものも、
「母性の芽」みたいなもんと考えてみました。
私が最初に漠然と捉えてた「母性」を「母性の芽」ぐらいの
位置づけにしてやると、その芽が環境により育って行くのが
よくわかる気がします。

「出産の体験」やちくわぶさんの言う「母乳による子育て」
不思議ですよね、母親って。その時だけ母乳がでるようになるんだから。
そういや、昔、胸が大きくなったって喜んでいた人がいたな(^^;
これらの体験は、間違いなく母性を強めていくんでしょうね。
ナテラさんには「母乳による子育て」がなかったんだよなあ。

グルシャがでない母乳をやろうとするのは象徴的ですね。
グルシャには出産の体験も、母乳による子育ての体験もない。

上記のような体験が母性を育てることに反対する人はいないと思うけど、グルシャが体験したことってのは、単に女であることとかではなくて、赤ちゃんと人としてどう対面してきたかってところにあるんだろうな。
ナテラさんには、その部分もなかった。
だったら、グルシャのような体験は男性でも可能かなという思いはやはりあります。ちくわぶさんがおっしゃるように女性にも男性にもいろんな人がいるから、それは赤ちゃんとどう対面できるかにかかっていて、そういう体験ができる男性はやっぱりいるのでしょう。

なぜ、そう思うかっていうと、
ロシア人の大男、グルシャがミカエルを預けようとする農家の旦那さん、この人、すごくかわいい顔して、すごくいい顔してミカエルを高くかかげるよね。このシーンがとっても印象的なんです。
男性も母性を持てるんじゃないかと思うのはこのシーンがあるからです。
「母性の芽」が顔出しているように思いませんか?

関係ないけど、ロシア人ってベビーフェイスだよね。
この男の人、すごい大男なのに、かわいくってしょうがないんだけど(^^)

>「生きるのも一緒死ぬのも一緒」

一家心中で子どもを道連れは間違っているよね。私もそう思います。
私は橋でのこのセリフは「エロス的な愛」も「自己犠牲的な母性」も両方とも表れていて、それがミカエルのためになることだから、この二つが矛盾しないんだと思います。
たぶん、この橋のシーン「生きるのも一緒死ぬのも一緒」で
「エロス的な愛」も「自己犠牲的な母性」も育ちきる。
両方とも目覚めたんだね、きっと。

「エロス的な愛」は相手のためになるときもあれば、
相手のためにならないときもあるけれど、
ここでは相手のためになるんでしょうね。

それに対して、最後の裁判のときは、
「エロス的な愛」と「自己犠牲的な母性」が対立してしまう。
どちらかの選択を迫られ、「自己犠牲」が勝利する。

出産を体験した母親は、その時から子どもを特別に思っていて、
「エロス的な欲」と「自己犠牲的な母性」を両方持っていて
「エロス的な欲」が強くなりすぎると、
母親は子ども離れができなくなるんじゃないでしょうか。
子どもが小さいうちは、保護しなければ生きられないから、
「エロス的な欲」と「自己犠牲的な母性」は矛盾しないことが多い。

「エロス的な欲」を抑制して、「自己犠牲」をしてでも、
子どものためになることを選択する。
グルシャのように・・・それが母性が育つってことかな?

今日は早く寝る予定だから簡単に書こうと思ったのに長い・・・・こんだけ長いと誰も読まないよな(-_-メ
commented by マツタコ管理人 posted at 2005/03/04 21:14

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