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削除された冒頭シーン

今は松本です。今朝は飛行機に乗り遅れてしまって
エライ出費になりました。ガックシ。
まあ、私が悪いんだけどね。しいて理由をあげるならば、
新しく買った「頭のまくら付きの抱き枕」が寝心地がよすぎた
ってことかな。

さて「ブレヒト」の本、序文だけ読みました。
「叙事的演劇」の話と「異化効果」の話が書かれていましたが、
「叙事的演劇」のところで思ったことを書こうと思います。

「作・演出 ブレヒト」をブレヒト劇といい、
ブレヒトの演出を踏襲することをブレヒト劇というならば、
今回の「コーカサスの白墨の輪」は「ブレヒト劇ではない」という言葉は、
非常に正しいと思いました。

ただし、ブレヒトが革新者であったのなら、
ブレヒトの演出法がきちんとした目的をもって崩されることには
異論を持たないだろうということ。
どのように崩すかというその手法の効果に疑問を挟むことはあっても、
崩そうとする行為そのものは肯定するだろうなということ。
こういう印象も持ちました。

それと誤解してはいけないのは、ブレヒトは感情が揺さぶられることに
関してはむしろそれを求めているということです。
ただ、そのときに感情が揺さぶられてある種の感情を消化してしまって、
それ以上に発展性を持たないことを危惧しているのであって、
観客が自身や自分の所属する社会への問いかけに
その感情を結びつけることを求めているのかなあと思いました。
求めていると書くと、観客に要求する作家・演出家という風にみえますが、
そうではなくて自身の戯曲・演出が観客をそういう状態に導けるように、
戯曲をつくり、演出の中で様々な試みをした人なのだろうと考えてます。

ブレヒトの試みた劇中劇の構成は、今回は完全に崩されているといってよいと思います。
以前書いた私の書き方を踏襲して、劇中劇を劇(A)中劇(B)とすると、
劇(A)は劇(B)を観るにあたってある種のテーマを観客に与える位置づけに
なるのではないかと思います。
しかし、今回は私たち観客は劇(A)の中に取り込まれていて、
劇(A)では、これから観る出し物がをどういう視点でみればいいかは語られず、
現代の自分たちに置き換えられるものなのかは、問われません。
劇(A)でのコルホーズの話は、現代に置き換えて語れる可能性はあったはずです。

だから、指針を与えられないままに観る寓話は、
「どこか遠い国の遠い物語」の印象のまますすみ、
観客は自分の問題として主体的にとらえることがしづらくなる。

非常に興味深い感想を書いている人がいた。
「だらだらと、観客は途中で勝手に休憩したりしつつ、10時間くらい芝居を見るような感じ」
これは結びつきがゆるやかなシーン、シーンが連続していて、
全体を通して見逃しても支障がないということだと思う。
一瞬、この人は物語から何かを得ようとしていないのかと思ったけれど、
そうではなく、この物語の断片のつなぎあわせからは、総体となったときに得られる
ものがないという主張なのだろうと思った。

だから、一つ一つのシーンがある総体の部分であることは、
最初の段階で提示されていなければ、見る人に退屈をもたらすのだと思う。
ここで物語からカタルシスを得ようと行った人は肩透かしをくらわされる。

その退屈を緩和しているのが、場の作り方なのだと思う。
具体的には、音演劇の手法、照明の使い方や空間の使い方、小道具の使い方などである。
そこに目新しさを感じる人は退屈しないけれど、それをいつもと変わらない手法と
感じる人は、満足を得られないのだろう。

私自身はどんな演劇でも伝えたい何かがあるはずだと考えているので、
戯曲と演出そして演技から語られるものに意味を見出したいと考えて、
最初から演劇を見ているけれど、種種雑多な観客がすべてそれを求めているわけではない。
しかし、表現に意味を見出すエモーションを自然に観客が起こすように
ブレヒトは演出方法や戯曲を考えたわけで、その意味で、観客への
そういう働きかけができていない演出はブレヒト的ではないのでしょうね。

多くの観客が主体的に演劇を観るためには、劇(A)での現代的テーマの提示が
必要だろう。もし、これを削るならば、何か代替がなければならないのだろうと思う。
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