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信仰・希望・愛

私の勤め先は、今年が○○周年なのですが、
その関係で頼まれた仕事で、この言葉を使おうとなりました。

「御言葉を行う」という言葉が聖書の中にありますが、
これは、信じ、希望を持ち、愛して生きることだと思っています。

説教学という学問があるのだそうです。はじめて聞きました。最近は、そこでも「コミュニケーション論」が重視されているそうです。「説教」という言葉の響きから、私などは「押し付け」を感じるのですが(私は自分も他人も尊重したいので、押し付けは嫌いです)。その説教を扱う学問でも、「説教として発せられる言葉そのもの」よりも、発せられた言葉が「聴き手にどう受け止められるか」に重きが置かれるようになってるんです。

伝え手の意図と聴き手の解釈は必ずしも一致しません。
聴き手により受け止められるモノは、決して伝え手により送り出されたモノではなくて、聴き手が受け止めることのできる領域に限られたモノ。

自分の基準のみに照らして、これはおかしい、あれはおかしい、と切り捨て、
なぜ、そうなったのかを考えることをしない。
伝え手を信じ、伝え手の正しさを望み、伝え手を愛する。
伝え手の意図を読み取ろうとせずに、聴き手が自分の世界の中で解釈するとき、
それは、結局、自分の世界から一歩も出ていないことと同じになります。

私は○さんの出演舞台やドラマについて、他の人が書く感想を読むことが多くなりました。ネットをするようになってからは、簡単に人の感想に触れることができます。その中で、ずっと感じてきたこと。
「表現は素直にそのまま受け取る」
聴き手(表現の受け手)は不可解なことに出会ったとき、
伝え手を信じ、伝え手の正しさを望み、伝え手を愛していれば、
自分の世界を広げることができるはず。。。私は、そう思います。
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